擬似環境

 高木秋人と香耶は夫婦である。マンションで2人暮らしをしている。
 当時から現在に至るまで高木の職業は漫画家であり、主に自宅と真城所有のマンションの一室である仕事場で実質的な作業をしている。そのため自宅にいる時間が長く、妻である香耶と一緒にいる時間は長い。香耶も最初は夫と共にいる時間が多いことに喜んでおり、簡単なアシスタントや食事の用意など様々な面で高木を手伝っていたが、最近は少し別の興味が湧いてきたらしい。突如外で働いてみたいと言い出した。香耶にそれを言い出された高木は二つ返事で許可した。と言うのも、今まで自分たちのために全面的に協力してきた彼女にとって、自分から自分の望みを口にしたのが初めての事だったからだ。過去小説家などと言う夢を口にはしたものの、高木や真城、亜豆の影響を受けてそれらしい職業を口にしたに過ぎない。本気ではない夢をさも人生の目標のように言っただけで、その気など殆どなかった。香耶は高木たちと同じ場所で共感を得たかっただけなのだ。
 その香耶がやりたいと言う。ならば許すのが夫だと高木は考えた。家計が苦しい訳でもないし、香耶が労働に出る必要性はないが、それだけが労働の理由ではない。香耶が望むのならば叶えてやりたい。そんな理由での許可であったが、香耶は思いのほか仕事に喜びを感じ始めたようだった。香耶が外で働き高木が家にいる時間が長い分、傍から見たら高木が専業主 夫のように見えた。それを真城に揶揄されてからと言うもの、香耶と高木は毎回出かけるたびに同じやり取りをするようになった。
「行ってらっしゃいのちゅーは?」
「はぁ? しねーよ。遅れるぞ」
「何よもうー! 行ってきまーす!」
 男女の違いはあれど、出かけ際に伴侶とイチャ付きたがるのはある種の女の子の夢だ。香耶にとってもはや高木は『奥さん』であった。そして毎日玄関先で同じようなやり取りをしていれば、本人以外にもそんな認識を持つ人間が増えるのである。そしてその認識はある意味正しい。香耶が外に出ている分、高木が家事を請け負うことが増えた。仕事の合間の気分転換になると言う理由も兼ねているが、やってみるとなかなかに難しい。と同時に面白さも感じた。今まで家事全般を母親ないし香耶に任せきりだった高木にとっては新鮮そのものだったのである。

 香耶が仕事へと出かけたのを見届けると、キーチェーンを掛けて仕事部屋に入った。PCに向かいキーを打ち、時折キーを打つ手を止め思考に深く沈んだり、席を立っては調べ物をする。それを何度か繰り返す。高木の仕事は原作だ。作業量は真城には及ばないかもしれないが、作品の柱となる部分である。真城にその後を託すために練りに練ったものでなくてはならない。集中し始めると高木は早い。一通り調べ物が終わると、キーを叩くスピードが増した。頭の中にあるイメージをアウトプットするだけでは完璧とは言えない作業を、高木はパズルのように組み立てながら実行して行く。仕事部屋は高木がキーを叩く音だけに支配された。それ以外の音はマンションの外の微かな雑音くらいのもので、ささやか過ぎて高木の思考と作業の妨げにはならない。カタカタとリズミカルに鳴るキー音は小気味良くもあった。数時間が経った頃、溜息と同時に最後の句読点を打つと大きく伸びをした。少しマウス操作をして、先程まで打っていた文章をプリントアウトする。無機質な音を響かせながら吐き出された紙を手に取り、ざっと見直す。
「んー……」
 文字を目で追いながら髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。まだ納得できるレベルには至っていないと表情は物語っている。推敲しようとペン立てから赤いペンを取り出すと、不意に携帯が鳴った。これから始める仕事に邪魔が入ったような気がして高木の眉間に皺が寄ったが、携帯ディスプレイに表示された見慣れた名前を見るとパッと表情が緩んだ。これ以上コールを鳴らさせないとばかりにすぐ通話に応じる。
「もしもし? どした?」
「おー。いや、進んでるかなって」
 電話の主は真城だった。
「んー……だいたいは出来たけど推敲はまだ。もう少し詰めないとだめかな」
「そっか」
 真城から電話を掛けて来ることは高木に比べると格段に少ない。本当に用事がある時しか掛けてこない上に、今は高木の原作を急ぐほど切羽詰った状況でもない。つまり全く緊急性のない電話だという事だ。少し珍しい出来事に高木は喜んだ。時計を見るとちょうど12時を過ぎて、もうすぐ13時を回る頃だった。先程まで時間を気にすることなく集中していたが、時間を知ると途端に腹が減って来たような気がするから不思議だ。
「サイコー、今どこ? 家?」
「いや、仕事場だけど」
「メシ食った? 食ってないならウチで食わね? ちょっと学校の場面で迷ってる所があってさ、サイコーに見てもらいたいからついでに」
 ついでにと言うよりは、高木が真城と一緒に居たがったと言う方が正しい。仕事でもプライベートでも一緒に居る時間が多い二人だが、今でもこの二人はそれに飽きると言うことを知らない。
 真城がそれに了承の意を示したのを聞くと、早速高木はオレンジのエプロンを身に付け昼食の準備に取り掛かった。香耶が軽く昼食を作っておく事もあるが、最近ではそれもあまりなくなっていた。高木が少しずつ自炊するようになったからだ。とは言っても香耶のようにきちんとしたものはあまり作れない。なのでごくごく簡単な食事である。簡単ではあっても食事の役割はこなせるのだから、高木にとってはそれで良いのである。極論だが食えれば良いというやつだ。冷蔵庫の中を物色し食材を取り出す。フライパンを熱して油を敷くと、それだけできちんと料理をしている感覚が味わえる。溶いた卵をフライパンに落とすと、じゅわっと香ばしい音がした。しばらくすると真城の来訪を告げるインターホンが鳴り響いた。調理を中断し、洗った手をエプロンで拭いながら玄関へ向かう姿は誰が見ても『奥さん』であった。玄関のドアを開けると真城の驚いた顔が覗く。
「おー、上がって上がって」
「……お、お邪魔します……。シュージンが作ってんの? 香耶ちゃんは?」
「香耶ちゃんは仕事。ちょうど出来るからなー」
 普段全く見慣れないエプロン姿の高木を、真城はまじまじと見ていた。実際この姿は香耶の居ない時の高木家でしか披露されないので、頻繁にここに訪れる訳でもない真城にとっては新鮮な姿だ。香耶がいれば高木はエプロンをする必要がない。高木に座るように言われ、適当にリビングの椅子に腰掛けた。高木のエプロン姿は気になったが、あえて意識を逸らすようにテレビを付けると料理番組が映った。何度かチャンネルを変えたものの特に面白い番組はやっていないようだ。テーブルに置かれたプリントアウトされた原作を手に取る。出来るまでの間それでも見ていてくれと高木に言われたが、何度読んでも表面をなぞるような読み方しか出来ず、大して頭に入らない。重要であるはずの原作原稿よりも、今この場で漂っている匂いにずっと気を取られている。高木が作っている料理の匂いだ。食欲をそそる油の匂いが真城の唾液を過剰に増やした。気を取られているとは言っても、高木のエプロン姿の次ではあるが。
「な、何作ってんの?」
「卵チャーハン! 今持ってくからなー」
 上機嫌そうな高木の声で料理が出来たことがわかった。真城は少し緊張しながら待っていたが、それは高木の料理を初めて食べるからなのか、この慣れない状況に戸惑っているのか、おそらく両方だろう。パタパタとスリッパを鳴らしながら、二人分の皿を持った高木がキッチンからやって来る。その姿は紛うことなき『奥さん』であった。思わず目を泳がせた真城は見るつもりもないテレビに視線を固定させる。
「その昼ドラ面白い?」
「えっ……いや……、別に……」
 高木に突っ込まれたのでまたチャンネルを変える。やはり面白そうな番組はやっていなかった。当たり障りのない旅行グルメ番組に適当にチャンネルを合わせてリモコンを手放した。
 テーブルに高木の料理が並べられる。とは言ってもメインの炒飯とインスタントスープだけだったが、空腹の胃袋には十分効果的だ。高木の原作を汚さないように脇によけて昼食を頂くことにした。レンゲで米を掬うと、卵にコーティングされた調理されたてのほかほかの米と油の香りに鼻腔をくすぐられる。ふと正面に座る高木の顔を見てみると、食べずに真城の反応を見ている。その顔は期待と心配が入り混じった何ともいじらしい顔だ。その顔を見ないよう照れたように下を向いて一口食べた。炒めすぎなのか多少パサパサしていたが、スープで咽を湿らせながら食べればそう大した問題ではない。味も悪くはなかった。
「……ん、旨い……んじゃん?」
「マジで! 良かったー!」
 緊張が途切れたように表情を緩ませる高木は、まだエプロンをしたままだった。正面でニコニコしながら同じ昼食を食べている高木を見ていると、真城の胸がほわほわと暖かいものに包まれる気がした。
(何か……これって……)
 高木にはあって、真城にはまだないものだ。この感覚を得る将来は約束されてはいる。しかし相手も違えば感覚も違う。真城は将来の感覚よりも今の感覚を持続させたいと思った。だがそれはあまりにも近くて遠いものだ。それは暖かくはあっても中身は唐辛子のようなもの。一時の熱は与えてもピリピリとした痛みを伴うのは避けられない。じわじわと浸透する暖かさは、じきに真城を蝕む熱となり安易には取り除けないだろう。
(深く考えないようにしよう……)
 今は目の前の食欲を優先させた。


「ごちそうさま」
「おー。コーヒー飲む?」
「スープ飲んだし、いいや」
 食事が済んだのなら本来の目的である原作の話をする。とは言っても大して頭に入っていなかったので、高木に適当な言い訳をしてもう一度真面目に目を通さねばならなかった。さすがに読んだが覚えていないとは言えない。十数分時間を貰い、冒頭からきちんと読む。高木の原作は面白いが、確かに本人が言うように少し詰めが甘いと感じた。具体的にどの部分が甘いのかは、真城には上手く口で説明できない。
「どっかで迷ってるって言ってなかった?」
「うん、2枚目のここ。ここの学校の場面なんだけど……」
 高木が真城に身体を寄せた。A4の用紙に所狭しと印字してある文字を指差し意見を仰ぐ。それだけで真城の心臓が跳ねた。互いの接近くらいではもう動揺すらしない仲なのに、些細なイレギュラーがスパイスになっている。高木の言葉を聞きながら何とか頭を仕事モードにし、場面に合った代替案をいくつか出した。高木がその案をぐるりと頭に巡らせてみると、納得する話が組み上がったようだ。厄介なパズルを解くヒントを与えてもらったかのように、すっと展開に明るさが生じた。高木は真城に笑顔で礼を言うと早速要所要所に赤で修正を入れていったが、当の真城は照れたように高木から目を逸らしていた。
「ありがとな、大分すっきりした。これでイケると思う」
「お、おう」
 赤を入れ終えた高木が顔を上げると、真城が明後日の方向へ顔を向けていた。ふて腐れてでもいるのかと正面に回りこむが、やはり顔を背けられてしまう。高木の眉がハの字に下がった。
「え、何? 何で俺避けられてんの? 何かした?」
「……べ、別にそんなんじゃ……」
「そんなに面白くなかった?」
「それはない! ……あっ」
 それだけはないとつい顔を上げてしまうと、目の前には高木の顔があった。しまったと思ってももう遅い。だがそれ以上に少し困った顔で真城を見る高木が気になった。
「じゃあ何で?」
「いや……別に……」
「別にって何だよ〜……言えよぉ」
 ちょこまかと真城の周囲をうろつく高木が、まるで主人の機嫌を伺う犬のようだった。この関係性は中学時代から全く変わらない。変わったことと言えば彼らの関係が友人を通り越した上に行ってしまったことと、真城が高木に大分優しくなったことだろうか。
「何か変な感じっつーか……シュージン、エプロンしてるし……」
「え? これ?」
「ご飯作ってくれるし……」
 そこまで言ってしまえば頭の回転だけは良い高木はピンと来る。本当ではないにしても、擬似的に味わえてしまったことに真城は戸惑っている。もしかしたら照れているのかも知れない、と思うと高木は身体の芯から熱が上がって来たように嬉しくなった。
まだ照れたように顔を背ける真城に後ろから腕を回す。真城は一瞬だけびくりと肩を上げたが、そのまま高木の好きなようにさせていた。以前であれば「気持ち悪い」とすかさず手を払っていたが、この違いが中学時代から築き上げてきた関係なのだった。
「わかった。今は俺サイコーの奥さんな」
「な、何だよそれ」
「今だけだって。本当の奥さんは亜……んむ」
 それ以上言わせないように唇で高木の口を封じた。お互い分かりきっていることだとしても、その名前を口にする高木の顔はいつも少しだけ切ない。真城はその顔を出来るだけ見たくなかった。押し付けるだけのキスから、舌で高木の唇を舐めた。唇はスープの味がした。同じものを食べていたのだから、きっと自分の唇も同じ味がするのだろうと真城は思った。たったそれだけのことがとても素晴らしいことのように思える。
(考えたって仕方ないのに……でも僕は……)
 高木と真城は同じだ。同じであるからこそ同じものを背負う。それは仕事に関することだけではなく、人生を通して背負う同じものなのだ。そしてそれは生涯を通して共有するもの。高木が口を少し開けてねだった。その仕草に少し笑って望み通りに舌を与えてやると、たちまち真城の舌は高木に絡め取られた。乾燥を潤すかのように高木の舌は真城の舌と唾液を欲しがる。
「ん……んんっ……」
 ささやかな水音を響かせながら二人は唇で互いを潤した。まだ電源が付いたままのテレビに掻き消されてしまうほどのささやかな音だ。それでも二人にはその水音と互いの吐息しか聞こえない。場違いなテレビの音は認識されなければないものと同じだ。やがて二人の唇が離れると、真城の手がくしゃくしゃと高木の髪を掻き混ぜた。それすらも嬉しいのか高木の頬は上気している。スープの味がした、と高木が呟いたのを聞くと、真城は少し嬉しくなった。
「もっとソレっぽいことしようぜ」
「ソレっぽいことって何だよ」
「うーん……膝枕で耳掻きとか?」
 そういうのはいらない、と真城が断ると高木からブーイングが起こる。二人で笑い合うともうそれだけで幸せだった。
もしかしたら今日と真逆なことがこの先は起きるのかも知れない。その時は今の真城の気持ちを高木が、高木の気持ちを真城が味わうことになるのかも知れない。それでも選んだのは二人で、背負うのも二人。それでいいと選択した。だからこの先も共有するのだ。14歳からの糸を保つ無意識下の共有は、未来も過去も今も甘く二人を苛む。その甘さから脱しようとしない二人は、糸に組まれた網の上でのんびりとたゆたうのだった。


____________
ややパラレル。 こんなオチじゃなかったんだけど……あれ……おかしいな……



←戻る