日常青春

「キスしていい?」
  と聞かれたので、いいけど、と答えようとする前に唇を塞がれた。
 僕の部屋は漫画や資料や原稿で散らかっていて足の踏み場があまりなかったので、シュージンと2人でベッドの上でだらだら話をしていた。ふと会話が途切れたのでチラリとシュージンを見ると、首を傾げてそう言われた。
  塞がれたと言うよりは、吸い付かれたって感じ。何度か啄ばまれるように唇をちゅ、ちゅ、と吸われていると徐々に体重を掛けられ、僕の身体はベッドの上に沈められてしまった。何だ何だ、すげーやる気だな。いや割といつもそうだけど。シュージンの薄い唇が、何度も何度も僕の唇を吸う。色素の薄い髪の隙間から耳たぶが見えた。腕を上げてシュージンの耳の後ろをこしょこしょとくすぐると、くぐもった笑い声が聞こえた。
  尚も遊びのようなキスを何度か繰り返しているシュージンの唇の隙間から、舌を差し込もうと試みる。するとシュージンは舌から逃れるように唇を離し、へへ、と笑った。その頬はさっきより色付いている。また吸い付かれた。今度は唇で唇を食むように、ゆるくくっ付け合う。さっきコーヒーを飲んでいたせいか、微かに味が残っていた。そのコーヒーの味が気に入らなくて、僕は再び舌を滑り込ませた。今度は受け入れられたようだ。ぬるりと口内に潜入し、下の歯茎を舐め取る。するとシュージンが僕の舌の裏を舐め上げた。ぞくりと首筋あたりに快感が走ったので、このやろ、とシュージンの頭を引き寄せて思いっきり食らいついてやった。「ん、んっ……」
  息も吐かせないくらいに口腔を荒らしてみた。上から下から、右から左から、蹂躙するように掻き混ぜる。唇の間からちゅく、と濡れた音がする。一度唇を離して酸素を取り込んで、また唇に食らいつく。シュージンがとろんとした目で僕を見ていた。先に仕掛けてきたのも上に乗ってるのもシュージンなのに、この雰囲気に一番呑まれてしまっているのもシュージンって言うのが、らしいなぁと思う。
 ゆるくシュージンの舌を噛むと、肩がぴくりと震えた。尖らせた舌で上顎の内側を突付かれたので、僕も舌を絡ませては吸って、吸っては絡ませる。2人とも唇の端から唾液がこぼれるのも構わずに、お互いの唇を吸い合っていた。
 ちゅ、と音を立てて名残惜しく唇を離すと、2人で深く息を吐く。シュージンが照れたように、でも嬉しそうに笑っていたので、その唇にもう1度触れてみた。もうコーヒーの味はしない。
「サイコー、好き」
「うん」
  猫のように、いや、この場合犬か。僕の上に乗ったまま、犬のようにすりすりと甘えるシュージンの頭をよしよしと撫でてやる。こう言う所をうざいと思うときもあったけど、こんな関係になってからは可愛いなーと思うことが多くなった。惚れた弱みってやつだっけ。……違う気がする。あばたもエクボだっけ。やっぱり違う気がする。まあどうでもいいか。
 部屋の時計を見ると、夕方の6時を半分過ぎたところだ。1時間後に下の階の母親から夕飯に呼ばれる間、僕たちはベッドに寝転がったままだらだらいちゃいちゃしていたのだった。

 今日はシュージンがそのまま泊まることになっているので、飯を食わせたり(僕が作った訳じゃないけど)風呂に入れたりして、それなりにもてなしてみた。あとは寝るだけ、となってから思い出した。僕の部屋の惨状を。
 足の踏み場がないから主にベッドの上でだらだらしていたと言うのに、寝る場所なんて確保している筈がない。僕の部屋は結構手狭なので、もう一組布団を敷くには他の家具をギリギリまで詰めないといけないし、それにはまず散らかったこの状態を何とか……。母親に「だから片付けときなさいって言ったでしょ」と小言を言われたが、そんなことは自分でもわかっているので、逃げるように部屋へ避難した。ドアを開けると代わり映えのしない散らかった部屋が目に入る。まずは片付けないと。
「わり、布団敷くスペースないから今から片付ける」
「え、いいってそんな」
  遠慮するシュージンをよそに、フローリングの上に散らばるジャンプ、単行本、クロッキー帳、スケッチブック、それらをまず拾い上げて本棚や机の上に置く。今度は本棚や机の上が雑然としてきて、机の上にいたってはそのうち雪崩が起きそうだった。とりあえず床を空けないことには仕方がないので、床以外のところは後で考えることにした。本の束を拾い上げていたら、ごとりと音を立ててPSPが落ちた。そう言えばPSPなんて持ってたな。横から尚も遠慮し続けるシュージンの声が聞こえる。
「ここ以外なら寝る場所あるけど、さすがに居間とかに寝かせるわけには」
「い、一緒に寝ちゃだめか?」
  ピタリ、と片付ける手が止まった。一緒? 一緒って何だ、同じ部屋には寝るだろうから、まさかベッドに一緒に寝るってことか? 油の切れた歯車のようにぎこちなく顔を上げると、シュージンがバツの悪そうな顔をしていた。
「……ベッドに?」
「う、うん」
「パイプベッドだし、狭いだろ」
「俺は平気っ。で、でもサイコーが嫌なら、片付け手伝う……」
  ドクン、ドクン、と鼓動が早まったのを感じた。シュージンはバツの悪そうな顔から、顔を赤くして少し困ったような顔になっていた。それを凝視している僕の顔も、多分同じように赤くなっているに違いない。
 何で僕はこんなにうろたえてるんだ。仕事場で同じ毛布にくるまって寝たことなんて何度もあるじゃないか。そう言う関係以前に、男同士なんだから恥ずかしいことは何もないんだ。いや、嘘だ。そう言う関係だから意識する。ここで「じゃあ手伝って」なんて言おうものなら、シュージンは笑って応じるだろうけど、後でものすごく凹むに決まっているし、僕も凹ませるのは本意ではない。
  ならば返答は、でも、ああ、鼓動がうるさい。顔が熱い。寝るだけなのに、寝るだけなんだから。ベッドに。同じベッドに寝るだけなんだから。本当にそれだけのことなんだ。だから何で僕はうろたえてるんだ。
 横目でチラリとベッドを見た。何の代わり映えもない、いつも使っている自分のパイプベッド。見慣れているのに、今はどうしてだが魅惑の寝具に見える。ベッドに一緒に寝るって、何だか恋人っぽい、から意識してしまうんだろうか。
 シュージンを見ると、困った顔を通り越して泣きそうな顔になっていた。これは自分で言ったことを後悔している顔だ。ヤバい、早く返事しないとまたさっさと結論出して謝られる。そうなった時のシュージンは凹んでしまって面倒だ。
「……い、いいよ」
「え?」
  持っていた雑誌を床に放って、ベッドにごそごそと入った。奥に詰めて1人分のスペースを空け、敷布団をぽんぽんと叩く。それをポカンと見ているシュージンに向かって手招きした。
「ほら、入れよ」
  我ながら恥ずかしいことしてるな、と思ったが、一度腹を括ってしまえば何てことない。先にベッドに入った僕を見て、シュージンがまた顔を赤くした。釣られるからあまり顔を赤くさせないで欲しい。
「えと……お、お邪魔します」
「お、おお」
  シュージンがそろそろとベッドに入り込んできた。自分から一緒に寝たいと言ったくせに、遠慮がちに距離を取っている。落ちそうだったのでシュージンの肩を抱いて引き寄せると、びくりと身体を震わせた。「落ちるぞ」と言うと、照れながら擦り寄られた。
 枕元にあるリモコンで電気を消す。一気に部屋の明かりが消えると、音すらも全てなくなったように感じる。シュージンの呼吸の音が近い。ドクン、ドクンとうるさく鳴り続ける自分の鼓動が、また大きくなった気がする。枕が1つしかないことに今更気付いたが、嬉しそうなシュージンを見ていると枕を取りに行くだけの些細な時間も離れたくないと思ってしまった。ヤバいなあ、相当だ。自分が思っているよりも、僕はシュージンが好きなのかも。
 肩を抱いたまま目が合ったので、僕から唇を寄せてみた。何度か軽く啄ばむようなキスをお互いして、おやすみと囁いて眠りに付いた。鼓動は相変わらずドクドクうるさかったけど、せめてシュージンがこのうるさい音に気付かないことを願った。
  ……しかし眠れない。睡魔と言うものが一向に襲って来ない。時計の秒針の音だけが妙に耳につく。
 目だけは閉じているものの、意識ははっきり覚醒したままだ。厄介なことに、さっきからうるさく鳴っている心臓はさらに酷い音を立てるようになった。こんなに大きい音じゃ、隣で寝ているシュージンに聞こえていてもおかしくない。とにかく落ち着かないと。まずは深呼吸をして鼓動を落ち着かせようとしたが、シュージンが軽く寝返りをうった拍子に僕の肩に少し触れ、深呼吸は失敗に終わった。変わりに顔が熱くなった。鼓動が悪化した。落ち着かなくてゴソゴソしてしまう。ヤバいだろう、いくら何でも意識しすぎだ。
「……サイコー、起きてるか?」
  ドキリと肩が跳ねてしまった。少し挙動不審だっただろうか。それともよっぽど心臓の音がうるさかったのだろうか。僕は軽く返事をして、シュージンの次の言葉を待った。
「なんか俺、ドキドキして眠れねーんだけど……し、心臓の音とか聞こえたらごめん」
  そんな音は聞こえなかったけど、シュージンの台詞にまた心臓がうるさくなった。もしシュージンが僕と同じ状態なら、互いにドキドキしながらもそれを隠しつつ寝てるってことか。何だか間抜けな……。シュージンと向かい合って寝てはいても、目を閉じて寝た振りをしているので顔は見ていない。今も顔が見られない。照れてしまいながらも恐る恐る目を開けると、眼鏡を外したシュージンが、困ったように目を伏せていた。
「どうしよ、寝れね……」
「お、俺も眠れない。……ドキドキして」
  サイコーも? と僕に問いかけるシュージンの頬に手を伸ばした。ピクリと反応して僕を見たシュージンは、そのまま僕に身を任せるように動きを止めた。手の平に熱さを感じる。きっと僕の頬も似たような温度だと思う。さらりと頬を撫でているとシュージンが目を細めたので、唇を寄せてみた。
  ふに、と薄く柔らかい唇に自分のそれを合わせて、離す。シュージンの目を覗き込むと、微かに潤んで見えた。シュージンがゆっくりとまばたきをして、再び目を閉じた時にもう一度唇を合わせる。少し深めに合わせて粘膜と粘膜を擦り合わせた。遠慮がちに舌を差し込むと、逆に絡め取られてしまった。絡め取られた舌は吸い上げられ、その感覚にぞわりと背中が震える。柔らかく動く舌に今度は僕が吸い付き、舌の表裏を隅々まで舐め回してやる。静かな空間に水音が響く。
「ふ……んぅ、く……」
  ちゅく、と言う音と共に唾液と舌が絡まった。微かに漏れるシュージンの声と吐息に、頭がじんと痺れる感覚を覚えた。両手でシュージンの頬を支えて角度を変えて、さらに深く食らい付く。上顎から歯茎にかけて舐め、唇の端を下の先端で抉るように刺激した。
「あ……っ、ん、ん」
  不意に上がった声に、また胸が高まった。そんな声を聞くのは初めてだ。
  興奮、した。
  縋り付くようにシュージンが僕の服を掴んだのは、唾液が口の中で程よく混ざり合う頃だった。僕が舌をしつこく吸っていると「いてっ」とシュージンが声を上げた。どこか噛んでしまったのだろうか。驚いて咄嗟に唇を離して顔を覗き込むと、シュージンが口の中で何かもごもごしている。
「ど、どうした……?」
「ん……舌の裏、切ったみてー……」
  血が出ているらしく、少し痛そうに口を押さえていた。僕のせい、だろうか。僕がしつこく舌を吸っていたからだろうか。舌を吸うとシュージンの顔がとろんとするから、その顔が見たくて……と自分に言い訳をしている場合じゃない。
「わり、俺が……その」
「良いって、すぐ治るって。えと、軽いキスなら出来るし」
  暗闇の中でも困ったような、でも照れたように笑うのがわかった。結果として怪我をさせてしまったのでもう一度謝って、そしてお詫びの気持ちを込めてその身体を抱き寄せた。胸に抱き込んだ顔中にキスをして、僕なりの精一杯の機嫌取りをする。
 抱き合ったまま寝たら治るかも、と恥ずかしい事を言われたので、それで本当に治るなら良いけど……と思いながら、シュージンを抱きしめて目を閉じた。鼓動はまだ高鳴っていたけれど、腕の中のシュージンをぎゅっと抱き込むと、その暖かい体温に誘われるように眠気が訪れた。僕たちはそのまま、狭いパイプベッドの中で一夜を過ごしたのだった。

翌朝、母親が朝食を用意してくれた。2人で食べようと並んで席に着くと、コーヒーとスープはどちらが良いかと聞く母親に、シュージンが気まずそうに言った。
「すみません、出来れば冷たい飲み物をいただけたら……」
「熱いの苦手?」
「いえ、その……舌を、切ってしまいまして……」
  じゃあ烏龍茶くらいしかないけど良いかしら、と聞く母親に、珍しく小さな声で答えるシュージンの顔が見られなかった。顔が熱い、きっと今僕の顔は真っ赤だ。多分シュージンの顔も赤いと思う。
 その切った舌は昨晩僕が……、いや、何も考えないようにして平静を装わないと、母親に変に思われてしまう。2人して顔を赤くさせていたら、さすがに不審に思われるだろう。隣に座るシュージンをチラリと見ると、案の定顔を赤くさせていた。困ったように僕に笑いかけるシュージンに釣られて、僕も熱い顔のまま笑った。



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