食わせる方法

 そんなことわざわざ口に出さなくても良かったが、あえて口に出すことによって「ちゃんと食えよ」と暗に念を押したつもりだった。しかしそれが功を成したかどうかはわからない。……多分伝わってない。

 アシスタントが帰って、高浜さんも泊まらずに帰って、さらに見吉も帰った日は、サイコーはたまに俺に甘えてくるようになった。と言っても、俺の後ろから抱き付いてまったりするくらいだが。サイコー曰く、落ち着くんだそうだ。俺もサイコーがくっついてくれるのは素直に嬉しいので、好きにさせている。そう言うときはキスもその先も何もしない。する気力がないとも言う、んだけど。
 軽くなったな、と確信したのはそのときだ。以前も抱き付かれる以外の、所謂身体的なスキンシップと言うか、することをしたときと言うか、そんな場面で疑問に思ったことはあった。その後だんだん見た目にも明らかになってきて、ヤバいなと思い始めたのだ。ちゃんと食ってるかと聞いても、食う気力がなくてすぐ寝てしまうと言われる。それらの積み重ねと、様々なストレスでこんなに痩せてしまったのだろう。
 漫画を描くということは、常に机に向かっていなければならない。その作業がストレスにならない人はいないだろう(しかし新妻エイジくらいになると、わからない)。ストレスによって食欲が増して太るタイプと、逆に食欲が減って痩せるタイプがいるらしいが、サイコーはまさに後者のタイプだったようだ。せめて太ってくれれば栄養面は心配せずに済んだのになぁ……と少し思ってしまった。
 それにしても痩せ方が急すぎる。ズボンが緩くなったと言っていたが、ベルトの穴を1つ、もしかしたら2つ詰めたんじゃないだろうか。あと、肩が少し薄くなった気がする。それからやっぱり身体の重さも以前より足りなくて不安になる。
 考えてみれば、16時からアシスタントが来てそこから作画作業が始まって、アシスタントが終電に合わせて帰るまで、ぶっ続けで作業をしている。それを通学しながら続けているのだから、痩せもするだろう。
 サイコーがこぼした「超しんどい」は本音だ。しかし、しんどくてもやってもらわないと困る。だからと言って倒れられても困る。朝と昼はサイコーの家庭で何とかしてくれるだろうと考え、問題は夜だと考えた。俺の場合は打ち合わせで港浦さんとファミレスに出向くことが多く、その際に食事を奢ってもらうこともあるが、サイコーはそう言うことがほとんどない。アシスタントが来る前に、コンビニで買い込んだパンなどを胃に詰め込んだこともあったが、そんな些細な摂取もだんだんと少なくなっている。とりあえず俺は、食欲の有無に関わらずサイコーの口に何とか食べ物を入れさせることにした。

「こんばんはー」
 さすがに日が落ちた後におはようございます、はどうかと思うので、普通に夜の挨拶をする。アシスタントが並ぶ机から3つ分の挨拶が返ってきた。他のアシスタントがいても、高浜さんが普通に挨拶をしてくれるようになったのが少し嬉しい。相変わらず静かな仕事場に、俺が持ち込んだビニール袋がガサガサと派手な音を立てた。見吉がそれに気付いて顔を向ける。
「何買ってきたの?」
「ちょっと」
  そっけなく返すと、いつも作業をしているテーブルではなくキッチンへ入った。見吉は疑問に思った顔をしていたが、作業の手を止めることはなくそのままベタを塗る作業に戻った。テーブルの上にはベタ待ちの原稿が重なっており、今まで頑張って一人で塗っていたのだろう。
  キッチンは必要最低限のものしか置いてなく、しかも微妙にゴミ置き場になっている。40リットルのポリエチレン製のゴミ袋が、所狭しと何個か積んであるので、コンロを使う時にはちょっと気を使う。ビニール袋をシンクの上に置き、中身を取り出した。箱や缶にパッケージされたものをいくつか取り出す。形や中身は様々だが、それらは皆同じ目的の元に作られたものだ。家から持ち込んだ某コーヒーチェーン店のタンブラーを取り出し、準備を始めた。
  あらかた準備が終わったので、仕事場に戻る。ベタ待ちの原稿がさっきより増えていて苦笑いしてしまった。とりあえずサイコーの元へ向かうと、視線を原稿に固定させたまま「おーお疲れ」と声を掛けられた。
「お疲れ、これ飲み物」
「ああ、サンキュ」
  相変わらず視線は原稿に固定されたままだが、サイコーの作業机に置いてあったコーヒー缶を引っ込めて代わりにタンブラーを置いた。コーヒー缶をキッチンの適当な場所に置き、見吉の隣に座ってベタを塗る作業を始めた。
 その後数十分くらい経っただろうか、テーブルの上のベタ待ち原稿は残り1枚になった。時計を見ると、短針がもうすぐ8を差すところだ。小河さんからまたベタの原稿を1枚渡されたので受け取る。
「ぶはっ」
  突然作業机から変な声が聞こえた。サイコーの声だ。俺が渡したタンブラーを片手に俯いているサイコーを、アシスタントも見吉も何事かと驚いた目を向ける。そんな4人を尻目に、俺は何食わぬ顔をして尋ねた。
「どうした?」
「どう、したじゃねーよ! 何だこれ、何入ってんだこれ」
「俺特製栄養ドリンク」
  キッチンでゴソゴソ準備していたのは、これを作っていたためだ。ドラッグストアで、とにかく手軽に栄養補給が出来る類のものを片っ端から買ってきた。それは粉末状のサプリであったり、豆乳のような飲み物であったり、とにかく混ぜて問題がなさそうなものを手当たり次第にタンブラーにぶち込んだのだった。その俺特製栄養ドリンクが今サイコーが手に持っているものだ。
 ……味見はしてないので美味いかどうかは知らない。
「おまえ、これ味見した?」
「してないけど、そんなに不味いか?」
「不味いって言うか、甘ったるくて飲めたもんじゃねーって言うか」
  ああそうか。こう言う食品は甘めに出来ているものなのか。食ったことがないから知らなかった。覚えておこう。サイコーは甘いものを進んで口にはしないし、そう言う意味ではあまり良い味ではないようだ。しかし作ったものは飲んでもらわなければ。味はともかく、栄養面においては申し分ないはずだ。俺はとにかくサイコーを説得して全部飲ませようとしたが、あまりに甘ったるいせいか激しく拒否された。そんなに酷いのかと自分でも飲んでみると、練乳を少し薄くしたような、ねっとりと舌に絡みつく甘ったるい液体が舌を伝い、とにかく耐えられない感触を生み出した。これは確かに飲みたくない……。
「……わり、今度は味見して持ってくる」
「そう言うことしなくて良いって」
「嫌だ。食う暇がないんだったらせめて栄養取ってくれ。これ以上痩せてくの見たくない」
「シュージン……」
  嫌なのだ、こうしてどんどんサイコーだけボロボロになっていくのを見るのは。体力の負担が大きいのはサイコーであることを知っているだけに、何もしないで見ていることなんて出来ない。
  もしサイコーが倒れてしまったら。
  最悪の状況を想像しただけで、鼻の奥がじんと痛んで涙ぐんでしまう。サイコーが目の前にいると、一気に涙腺が緩むのもずっと変わらない。2人だけなら心置きなく泣けるが、今は2人だけじゃない。ぐっと堪えた。
 そんな俺の様子を察してか、サイコーが苦笑いをして俺の腹をぽすん、と軽く叩く。
「アレはもう嫌だけど、俺も何とか食うようにするから」
  困ったように小声でサイコーが囁いた。その言葉が聞きたかった。

 とは言っても、結局作画作業が詰まっているのであれば満足に食事の時間が得られない。それに満腹まで食ってしまうと眠くなってしまうし、腹八分目で時間を取らない食事と言うと何があるのだろうか。考えた末、行動に移した。
「ねえ、高木ってたまにバカだよね?」
「見吉にバカって言われる筋合いねーけど」
  バカと言われた俺は、サイコーの作業机の側にいた。時間を取らない食事の仕方を考えた結果、作業をしながら食事を取ってもらうしかないと結論付けたのだ。
 そして 今何をしているかと言うと、まさにサイコーが作画作業をしている最中に食わせている。サイコーは口を開けているだけ、つまり「あーん」をするだけ。俺はその口に食べ物を放り込むという訳だ。ペンを操る右手の邪魔しないように、左側からくっついて食わせている姿は確かにバカと言われても仕方ないが、これが一番効率がいいと思う。思いたい。サイコーもそれで良いって言ったし。
 勿論俺の手が空いた時にやる程度だ。本来の作業を放棄するのは良くない。なので食わせることは週に1度2度程度だったが、今まで食わなかったのだから、食うようになったのは良いことだ。
 今日の食事はブロックタイプとゼリータイプのカロリーメイト、それからパックのお茶だ。食事と言うには微妙なセンだが、原稿をしながら食わせると言う手前、食わせるものにも条件が付いてしまう。コンパクトに食えるもの、散らからないもの、濡れないもの。それらの条件を全てクリアするとなると、結局こう言うものになってしまう。今日の総カロリーは600キロカロリー。まぁまぁだ。
 そろそろ菓子のようなものにも飽きると思うので、他の食い物を考えなければ。パンでもいいけど、出来れば米とかがいいなぁ。寿司とかなら一口で食えるし……でも醤油が気になるな。醤油なしの寿司は少し味気ない気もする。
 色々と考えながらサイコーにカロリーメイトを差し出すと、指ごとぱくりと食われた。驚いてサイコーを見ると、本人は何食わぬ顔をして原稿に集中している。絶対にわざとだ。少し顔が熱くなってしまった。食われた指を舐めてみる。カロリーメイトの残りカスが指にくっ付いていて、それも一緒にぺろりと舐める。熱っぽく自分の指をちゅ、と吸うと、サイコーに頭を小突かれた。小声で何か言っているようだ。よく聞き取れないので顔を寄せると、耳元で「エロい顔すんな」と言われた。心外だったので、俺もサイコーの耳元で「サイコーのエロ」と言ってやった。
 そんな俺達の風景を見ていた見吉が、「真城と高木って、たまに入り込めない何かがあるよね……」と複雑な顔で俺に呟いたのは、また別の日の話。



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高木がすごくバカ。



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