ふわふら

 色々あったが、緊張しっぱなしの新年会が終わった。ただし終わったのは一次会であって、他の先生方と編集の人たちは二次会に繰り出すのだろう。場所が場所なので、俺たち未成年者は二次会に出たくとも出られない。勿論興味はあったがこればかりは仕方がないし、隣にいるサイコーがちょっと引いていたのでその話をするのは止めにした。
 打ち解けた先生方や新妻エイジ、港浦さん、服部さんに挨拶をして、パーティ会場を出た。エントランスの前には来たときと同じように黒塗りのハイヤーが停まっている。ただその数は少ない。二次会に行く人たちはタクシーで向かうようで、予め呼んでおいたと思われるタクシーに次々と乗り込んでいた。一次会だから皆セーブしていたのか、足取りが怪しい人はあまりいないようだ。……平丸さんを除いて。
 前もってハイヤーの迎えを頼むのを忘れていたので、パーティ会場を抜けながら貰った名刺に記されている番号に連絡をし、迎えを頼んだ。いやに丁寧な口調に恐縮しながら場所を告げる。承りました、と実際めったに聞くこともない言葉で待つように言われ、電話を切った。緊張からか深く息を吐いてしまう。
 迎えに少し時間がかかるとサイコーに伝えようとしたが、隣にいたはずのサイコーは少し離れたところでエイジと談笑していた。そう言えばエイジも未成年だから、俺たちと同じ一次会終了組だ。2人の側に行ってとりあえず迎えの旨をサイコーに伝え、そのまま俺もエイジとの雑談に興じた。あの作品を描いている先生は実際どうだっただの、料理がどうだっただの、他愛のない話をしながら迎えを待つ。雑談をする俺たちの側を、おそらく編集の誰かが「若いっていいねぇ」とニヤニヤしながら通り過ぎた。何と返していいのかわからず、適当に愛想笑いをして見送る。エイジが「若いとか関係ないです」と酔っ払ったような口調で反論していた。しばらくしてエイジの迎えのハイヤーが到着した。エイジのテンションに圧されながら見送ると、すぐに俺たちの頼んだハイヤーが会場の前へと滑り込んできた。
「大変お待たせ致しました」
「あ、いえ、どうも……」
  ハイヤーの運転手は来たときと同じように俺たちを迎え、やはりこちらも恐縮しながら乗り込んだ。乗り込んでみれば車内は普通だが(勿論いい車なのでタクシーとは違うが)それでも全く慣れそうにない。運転手に到着場所を確認され、サイコーが仕事場を指定する。大まかな移動時間を算出しそれを俺たちに告げると、静かに車体が動き出した。慣れない場所から離れたせいか、揃ってため息を吐く。
 時間にしてそれほど長くはなかったが、体感時間が長いように感じた。普通の高校生であればあんな場所にはまず縁がないだろうし、そう言った意味では良い経験をしたと思う。おそらくサイコーも同じように思っているはずだ。完全に日の落ちた窓の外の風景は夜景に彩られている。高速道路を走る車が光の帯のように見えた。来年もまたこの風景をハイヤーから見たいと思った。 谷草へ向かう車の中は静かで、控えめなエンジン音だけが耳をくすぐっている。車が走り出してからサイコーは何も喋らない。もともと口数の多い方ではないが、なんとなく気になって隣を向いた。夜景の光に照らされてわかりづかいが、よく見ると微かに顔が赤い。暑くて顔が火照っているとは考えづらく、思いつくことと言えばアルコールくらいのものだ。未成年と言うことでシャンパンにすら口を付けなかったが、サイコーは少し飲んだのだろうか。運転手がいる手前、小声で話しかけた。
「サイコー、今日飲んだ? 顔少し赤い」
「え? 飲んでない」
  サイコーは少し驚いたように顔に手を当てた。その温度を確かめるかのように何度も手のひらで頬をぺたぺたと擦る。俺もさわりたくなってその頬に触れると、確かにいつもよりも熱を持っているように思えた。
「ちょっと酔ってるんじゃね?」
「マジで一滴も飲んでねーって。でもそう言う感覚が……」
  雰囲気に酔ったのだろうか。酔ったとしても気分が悪そうではないのでそこは安心できるが。まだ納得できないサイコーは、何でだと呟きながら自分の顔を触っている。
「全く飲まなくても、酔ってしまう方もいらっしゃいますよ。揮発したアルコール分を呼吸で吸収して反応してしまうとか」
  前方から声が聞こえた。ハイヤーの運転手だ。そして運転手の言ったことは大いに心当たりがあるだけに興味を引かれた。
「あ、それ聞いたことがあります。皮膚からも吸収するって……」
「皮膚からの吸収はあまり心配しなくても大丈夫だと思いますが、あとは気分の問題もございますから一概には言えませんけどね」
  「それって酒に弱いってこと?」と呟いたサイコーに少しふきだしてしまった。しばらくそのまま運転手と軽く雑談をして、谷草の仕事場まで送ってもらった。またご用命の際にはと言われたが、個人的に利用することはないだろうなぁと苦笑いをしてしまった。おそらく運転手もそう思っているだろうが、それが営業なのだから仕方ない。また利用するときは来年の今頃でありたい。

 ハイヤーを見送った後は、荷物を取りに9階までエレベーターで昇る。サイコーはまだ気にしているのか時々顔をさわっていた。明るい場所で改めて見ると、やはり微かに顔が赤いようだった。
 仕事場に入って、キッチンの冷蔵庫に入れてあった缶コーヒーを飲んで一息つく。サイコーはペットボトルのお茶をぐびぐびと飲んでいて、それが酔い覚ましのための小さな抵抗に見えて少しおかしかった。
「……何笑ってんだよ」
「あ、悪い。なぁ、気分悪くないか?」
「そう言うのはない。ちょっとふわふわした感じはあるけど」
 中てられやすい体質なのだろうか。兄貴もたまに大学の飲み会や合コンでベロベロに酔って帰って来ることはあるが、兄貴の場合は実際飲んでいるのだから比較にはならない、だろうか。水分は今サイコーがペットボトルのお茶を飲んでいるし、他に出来ることといえば休んでいてもらうくらいしかない。他に何か出来ることがあるのかも知れないが、酔った人間の対処の仕方はこれくらいしか思いつかなかった。兄貴がもっと手の掛かる奴だったら、今役に立ったのになぁ。と実際そうなったら面倒極まりないことを思ってしまった。とりあえず気分が落ち着くまで座って休んでいるよう言ってソファを指差す。
「シュージンもこっち来いよ」
  素直に座ったサイコーに軽く呼ばれたので、何も考えずに側に行くと腕を強く引かれた。バランスを崩してしまい、二人掛けソファに座っていたサイコーに覆いかぶさるように倒れこんでしまった。困惑を言葉にする前に、さらにあっと言う間に身体を反転させられた。いつの間にか俺はソファを背に組み敷かれていて、その上にはサイコーが俺に圧し掛かっている。
「な、何」
「酔った勢い」
  それは自分で言うことじゃないだろ。と言おうとしたが、すぐにサイコーの唇で自分の唇を塞がれてしまったので、そのまま言葉を飲み込んだ。酔った勢いかどうかは別として、ちゃんとするキスは久し振りだったので惚けてしまった。目を閉じてサイコーの唇を何度も何度も味わう。酒の味も匂いもしなかったので、飲んでいないというのは本当なのだろう。確かに周囲にアルコールはたくさんあったが、それだけで酔ってしまう体質なのであれば少し気の毒だ。でも酔うとこうして求めてくれるのは、少し嬉しいかもしれない。
 唇を食んだり、くっ付けては離したり、しばらく遊ぶようなキスをしていた。目を開けたときにはお互いの唇は赤くなっていそうなくらい、しつこくキスを繰り返す。途中唇が離れたのでうっすらと目を開けると、サイコーに唇をべろりと舐められた。口を開けろと言う要求だ。素直に口を少し開けると、サイコーは満足そうに唇を重ねて舌を差し入れてきた。唇に食われるような感覚に身を任せ、舌と舌を絡ませた。ちゅく、と音を立てながらお互いの舌を吸う。麻痺してしまうようなぼんやりとした頭でキスを続けていると、不意に襟元を緩められた。
 襟元に目を向けると、サイコーがネクタイとシャツのボタンを緩めている。いやまさか、まさかしないだろう。だって明日からはすぐにアシスタントさんたちが来るし、俺もスーツを兄貴に返さないと……。そんな希望的憶測を笑うかのように、サイコーの手はどんどん俺の肌を露出していく。きっとサイコーはからかっているに違いない。反応した俺を「何期待してんだよ」と笑うに違いないのだ。
 しかしそんな希望も、サイコーの手がはっきりした意図で俺の下肢を撫でたことで脆くも崩れてしまった。撫でられればびくりと反応してしまう。その反応に気を良くしたのか、サイコーが俺の首筋を強く吸った。きっとキスマークが付いた。いつもはこんなことしないのに、酔った勢いってすげー。……なんて他人事のように考えている場合じゃない。このままだと、してしまう。兄貴のスーツが汚れてしまうのは避けたい。さすがに言い訳に困る。それに明日アシスタントさんが来るこの部屋では、あまりしたくないと思った。
「ちょ……待てって」
  やんわりと停止をかけると、途端に不機嫌な様相を隠さないサイコーの目が俺をじとりと見た。
「……んだよ」
「あーえと……その、スーツが、兄貴から借りたやつだし」
「俺より兄貴のスーツなんだ」
  ああ、そんな拗ねたこといつもは絶対言わないくせに。何で今日の俺は兄貴からスーツなんて借りてきたんだろう。出来るなら数時間前に戻りたい。今のサイコーのギラギラした目も、普段だったら俺になんてめったに向けられない。本当にスーツじゃなければそのまましたいくらいだ。仕事場に関してはこの際どうでも良い、問題はスーツだけなのだ。俺がぐるぐると考えていると、サイコーがさっさと俺の上から退いてしまった。何事もなかったかのように俺の乱れたスーツを直すと、お茶を一気に飲んだ。何となく未練がましくサイコーを見てしまう。
「『貸し』な。あとで返してもらうから」
  サイコーはそれだけ言うと荷物を取ってお先、と仕事場を後にしてしまった。帰っ……たんだろう。多分。ぽつんとその場に残された俺は、返すべき貸しのことを考えて一人期待に身体を震わせた。

 翌日、アシスタントさんたちが来る前に軽く掃除をしておこうと一度仕事場に入った。この後見吉を迎えに行く。自分でも早めに着いたと思ったが、仕事場には既にサイコーがいた。軽く挨拶をしたものの、サイコーは俺を見るなり目を逸らしてしまった。昨日のことだろうか。でも怒っているようには見えないし……と考えていると、サイコーがぼそっと呟いた。
「昨日ここで言ったこと、忘れて」
「え?」
  見ると、サイコーの顔がほんのりと赤くなっていた。照れているのか、昨日自分の言ったことを思い出して恥ずかしくなっているのか。確かに昨日は酔いのせいなのかいつものサイコーとは少し違っていたが、それでも嫌なわけではない。いつもと少し違うサイコーが見られて、むしろ俺は嬉しかったのだ。忘れるなんてもったいない。
「サイコー、『貸し』いつでも返せるからな」
「からかうなバカシュージン」
  機嫌を損ねたようだったので、からかってないしスーツはもう着ないからいつでもいい、と言うと、サイコーは首まで顔を真っ赤にさせてしまった。その様子が可愛いと思ったが、それこそ口に出すと怒られそうだったので何も言わずに微笑んだのだった。




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