カンフル剤

 1人、2人、3人4人5人。机が一つ増やされ、仕事場の人口が一気に増えた。
僕は普段使っている机で作業をしているが、アシスタントさんたちの机の配置のせいで、相対的に僕の席がいかにも「先生です」と言わんばかりだ。偉そうで嫌だ。重ねてこの部屋は静か過ぎる。人口密度が増えればそれだけ賑やかになるかと思ったが、そんな事はあまりなく、皆黙って作業をしている。
 部屋にはペンの描画音、消しゴムをかける音、そのカスを払う音、トーンを切り取る音、たまに出る咳の音、椅子の鳴る音、あぁ数えてみれば結構音は多いのかもしれない。しかしそれらの音があると言っても、そんな些細な音がわかると言うのだから、逆に部屋の静寂さを物語っているというものだ。もうテレビでも音楽でも何でも付けて、この静けさを誤魔化したい。でもそれで集中出来ないと言われたら何も言えなくなってしまう。見吉がいれば少しは違うのだが、今日は生憎来ていない。用事があって来れないのだそうだ。さすがに休まず来いとは言えないので仕方ない。……余計に静かだ。
 初日から落ち着かない日々が続いていたが、とりあえず慣れと言うものが人間には備わってるらしく、僕もそれなりにこの静かな空間に慣れてきた。と言ってもそれが快適かと問われればそうでもなく、やはり何となく落ち着かない。『亜城木先生』の片方であるシュージンは、テーブルでベタを塗っている。あまり作業環境が良いとは言えないが、作画の点ではこの中で一番出来ない奴なので仕方がない。シュージンも何となく居心地が悪そうだ。多分僕と同じように感じているんだろう。
 アシスタントさんたちと一緒にやる事については、今は緊張は解けたと思っているが、やはりそれなりに気は張ってしまう。冬なのに喉が渇く。暖房による乾燥もあると思うが、それだけではないだろう。机の上には今何も飲み物が置いていない。何か持って来ればよかった。
 冷蔵庫に何かあっただろうかと考えて、ユンケルが入っていた事を思い出した。いくら何でもユンケルを投入するには早い。普通の飲み物が飲みたい。そう言えば以前見吉がインスタントコーヒーを買ってきていた。あれで十分だろう。湯くらいならすぐに沸く。僕は席を立ってキッチンへと向かった。
「……どうした?」
「コーヒー」
  いつもは席を立ったくらいで気にもしないのに、シュージンも多分会話……とかに餓えていたんだろう。声を掛けられた。
「俺が淹れるよ」
「いいって。気分転換」
「じゃ、じゃあ俺も……」
何が「じゃあ」なんだか、と普段なら思うところだが、この静かな状況で何となく誰かと少しでも喋りたいと言う気持ちもわかった。あまりの静けさと、ギクシャクした空気に圧迫されそうだからだ。
 僕はシュージンに構わずキッチンに入った。向こうからは、シュージンがアシスタントさんたちにコーヒーは要るかと聞いている声が、遠慮がちに響いている。案の定遠慮の言葉が2人分、高浜さんは首を横にでも振ったんだろう。
 やかんに水を入れて、コンロにかける。コーヒーの場所を忘れていたので適当に探すと、棚の中に250g入りのものが5個見つかった。買いすぎだ。自分のカップを取り出していると、シュージンがキッチンに入ってきた。
「アシスタントさんたちに聞いたら、いいって……」
「じゃあ2人分な」
  シュージンのカップも取り出して、自分のカップの横に並べる。まだ火を掛けたばかりのやかんは、静かに温度が上がるのを待っている。
「サイコー、大丈夫か?」
「……何が?」
  小声でシュージンが話しかけてきた。静かだから小声になってしまうのか、アシスタントさんたちに聞かれたくないから小声なのか、多分どっちもだ。
「気ぃ張りっぱなしだろ?」
「慣れるまでは仕方ないよ。おまえも似たようなもんじゃん」
「う、まぁ……」
  2人で苦笑する。
「それは別としても、疲れてないか?」
「疲れててもやるしかないだろ。それにまだ掲載されてもいない内に、弱音吐いても仕方ない」
「そうだよな……」
  キッチンには、机に座っていた時に聞こえていた、皆の作業する音は聞こえて来なかった。壁を隔てると聞こえなくなる程度の音なのだ。人の気配は変わらず感じていたが、音は目の前のコンロから出るガスの音だけだ。いまいち落ち着かない空間だった。
「何かあったら言えよ。今日は見吉いねーし、必要なのあったら買いに行くから。あと雑用とか」
「今んところはないけど」
  ないけど、とシュージンを見上げた。シュージンは僕を心配そうに見ている。そう言えば、しばらく2人きりになる機会がなかった。今も2人きりと言うには少し苦しいが、簡易的に仕切られているキッチンは、僕の机からは丸見えでもアシスタントさんたちからは見えないはずだ。
「じゃあ一つ頼み」
「何? 何か買ってくる?」
「いや、じっとしてるだけでいい」
  嬉々として聞いてきたシュージンだが、僕の言葉を聞くと怪訝な顔をした。少し首を傾けた仕草が僕を煽る。一歩踏み込んで、シュージンを抱きしめた。シュージンは驚いたようにびくりと身体を震わせたが、やがておずおずと僕の背に腕を回した。密着すると身長差を意識してしまい、こんな時ばかりは早く背を追い抜きたいと思う。
 シュージンの首筋に顔を埋めた。無意識だが、僕は首筋に顔を埋めたがるクセがあるそうだ。シュージンに言われて初めて気付いたが、確かにいつも埋めている気がする。唇を首筋に寄せてなぞると、少しシュージンが身じろいだ。くすぐったいらしい。そのまま首から耳へ唇をなぞらせる。耳たぶを軽く食んだ。
「っ! 待……」
「これ以上しないって」
  耳元で呟いたせいか、シュージンの身体がまた少し震えた。左腕でシュージンの髪をサラリと撫でてみる。指の間からさらさらと零れ落ちる髪の感触が、心地良い。唇をまた首筋に戻し、息を吸う。ほんの少しだけ、汗の匂いがした。舐めたら少ししょっぱいだろうかと考えて、ぺろりと首筋を舐めてみる。
「う、嘘つき……!」
  ほとんど味がしなかった。何だか心外なことを言われたが、僕は別に嘘を吐いたつもりもない。それに嘘つきとか言ってるクセに、密かに喜んでいることも知っている。そのままずっと首筋に顔を埋めて、唇で撫でたり食んだりしていたら、やかんがシュンシュンと音を立て始めた。湯が沸騰している。すぐにシュージンから身を離すと、コンロの火を止めた。
 カップだけ出しっ放しにして、コーヒーの粉末すら準備していないことに気付いた。僕はスプーンを2つ棚から取り出し、自分好みの分量をカップに入れて湯を注いだ。安っぽくはあるが、心地よいコーヒーの香りが辺りに漂う。やかんをコンロに戻しシュージンの方へ向き直ると、シュージンは赤い顔で首筋を押さえていた。別に強い刺激は与えていないと思うけど。
「コーヒー、淹れれば」
「……なんだよ、もー……」
  シュージンは拗ねたような顔でぶつぶつ言いながらコーヒーの粉末を乱暴にカップに入れると、湯を注いだ。僕もシュージンもブラックなので、他には何も入れない。
「……さっきのが頼み?」
「ああ」
「意味わかんねー」
  シュージンだったらわかんねーこともないと思うけど、その拗ねた顔から僕に言われたがってるのがわかったので、仕方なく言ってやることにした。僕はこう言うことを言うのは恥ずかしくて嫌なので、あんまり言いたくないけど、たまには甘やかしてやるのも良いだろう。
「栄養補給」
「え?」
「サンキューな」
  シュージンの顔を見ずに、そのまま机に戻った。アシスタントさんたちは、席を離れる時と変わらず作業をしている。静かな空間に、ペンの音だけが響く。僕は何となく、気持ちの余裕が出来たと感じた。淹れたばかりのコーヒーを飲むと、口の中に苦味がじんわりと広がる。安いコーヒーだから、深みも何もない。
 少したって、シュージンがキッチンから出てきた。まだ顔が赤い。僕の方を向くと、少しはにかんだ。くそう、そう言うところは可愛いな。

 シュージンが席に着くと、また静かな作業が続いた。淹れたコーヒーはまだ残っていて湯気を出していたが、とりあえず目の前の原稿に取り掛かることにした。
「高木先生、ベタをお願いします」
「あ、はい」
「×印を書いておいたんですが、ここと……」
 加藤さんだ。今日は見吉がいないから、ここの女の人は彼女1人だ。人柄はいい人なので、小河さんに続き信用できる人だと思っている。加藤さんの声が、細かくベタ指示を出している。原稿に「ベタ」って書いてそのまま渡せばいいのに、細やかな人だなぁと思った。
「……で、以上です。……あの」
「はい? 他に何かありましたら、どうぞ遠慮なく」
「顔赤いですけど、熱があるんじゃ……」
  僕はふきだしそうになった。笑いを堪えて腹を押さえるが、腹筋がひくひくしている。間違いなく僕が原因だ。でも赤い顔を引きずって来るシュージンもシュージンだ。シュージンは、さっきコンロの近くにいたので、とか尤もらしいが苦しい言い訳で加藤さんを納得させていた。その強引な言い訳にまた笑いを堪えた。
 シュージンのじっとりとした視線を感じながら、目の前の原稿に集中する。栄養は補給したので、今日はいつもよりペースを上げられる気がした。




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