右肩の安堵

 開放された! と顔一面に書いてあった。気持ちはよくわかっていたので、俺は感情を込めて本当にお疲れ、と言ったのだった。心の中で。
 2週に1本の原稿提出期間が終わった。金未来杯にエントリーされたことだし、と服部さんが言ってくれたので、数ヶ月に及ぶ連載の予行演習は無事にゴールとなった。もちろん自分達のためにやっていたことで、嫌々やっていたわけでも強制されたわけではないが、学校に行きながらだと結構キツイものがあった。ここ数ヶ月の消耗っぷりは筆舌に尽くしがたい。俺はまだマシな方で、特にサイコーの消耗が激しかった。単純に作業量の問題だが、今日打ち合わせに行く途中でも何度かよろけていて、その度に冷や冷やさせられたものだ。
 とにかくこれで、しばらくはゆっくり出来るだろう。俺たちはよろけながらも気持ちだけは悠々とビルを出て、地下鉄の神保町駅へと足を向けた。来る際にも通りかかったコーヒーショップには、中井さんと蒼樹さんの姿はない。今ごろ金未来杯に出す作品について、担当の人と打合せをしているはずだ。『亜城木夢叶』を眼中に入れていない発言には少し反感を持ったが、人のことより自分達の作品に力を入れようと考えた。悔しいし。

 今日は帰ったらすぐ寝よう。たくさん寝よう。そう思いながら地下鉄の階段を降りている途中、サイコーの身体がよろりと傾いた。
 落ちる! と咄嗟に身体を支えた。階段はまだ降り始めたばかりで、高さはゆうにある。落ちたら無事では済まなかっただろう。冷汗が流れた。
「大丈夫か!?」
「おー……わりーな……」
「ヤバそうだったら、ちょっと休んで行くか?」
「いや、帰る……」
  眠気か眩暈か、とにかくふらふらと足元の覚束ないサイコーの腕を取りながら、階段を降りた。身体を安定させるために、手すりに掴まるよう促す。何度か「いいって」と腕を放すよう言われたが、またよろめいて落ちても困るので結局電車に乗るまで腕は掴んだままだった。
 それほど待たずに電車がホームへ滑り込んでくる。車内は少し混雑していたが、ちらほらと座席が空いていたのでまずはサイコーを座らせた。俺は立ったままだ。
「着いたら起こすから、寝てろって」
  少し困ったような顔をしていたが、小さくわりーな、と呟くとサイコーはすぐに寝てしまった。……今の入眠速度はのび太に並ぶな。打ち合わせで話しているときから何だかフラフラしてたし、大丈夫かなと思っていたが、多分ほっとしたことで一気に疲れが出たんだろう。とにかくここ数ヶ月のサイコーの消耗は著しい。目的の駅に着いたら乗り換えなくてはいけないので、起こすのが可哀想なところだが……。
 この地下鉄で家まで帰れたらいいのに、と非現実的なことを考えてしまう。あと少しもすれば乗り換えなくてはいけないこの地下鉄が、今日はとても意地の悪い乗り物に思えた。無機質なアナウンスが車内に響く。もうすぐ乗換えだ。車体がスピードを落とし、停止の準備をする。完全に電車が止まる前に、眠ってぴくりとも動かないサイコーを起こした。
 サイコーは意外とすぐに目を覚まし、少し目を擦って立ち上がった。先ほどまでの足取りが嘘のようにしっかりと歩いて、降車口へと向かう。
「大丈夫か?」
「ああ、少し寝たらマシになった」
  まだ眠そうだが、その言葉は嘘ではないようだ。それでもサイコーの様子を見ながら乗り換えホームへ向かって歩いていると、俺の顔を見上げて少し困ったように笑った。
「大丈夫だって」
「そうか……?」
「そんなに心配なら、手でも繋ぐか?」
「よし、繋ぐ」
「嘘だよバカ」
  何だよ心配してるのに……と思ったが、こんな軽口を笑いながら叩けるくらいなら大丈夫だろう。少しほっとした。
 乗り換えホームには、発車待ちの電車が入り口を開けて待っていた。発車時刻までまだ時間があるせいか、車内はガラガラだ。横長の座席同士が、向かい合わせに並んでいる。まずサイコーに座るように促して、俺も隣に座った。
「服部さん、やっと連載認めてくれたな」
「ああ。散々渋ってたけど、ちゃんと服部さんに結果出したし」
ちらほらと人が乗り込んで来るが、座席にはまだ余裕がある。学校帰りの学生、営業回りの会社員、買い物帰りの主婦、色々な人が乗り込んで、車内は少し賑やかになった。
「服部さんも意気込んでるし、絶対一番獲りたいよな。俺、あの蒼樹さんって人には特に負けたくねーし」
  発車のアナウンスが、落ち着いた声で車内に流れる。電車は様々な人たちを収納し、すっかり人で溢れかえっていた。発車を知らせるベルが鳴り、扉が閉まる。車体が少し揺れて、電車が走り出した。もう乗り換える必要はなく、乗り過ごしでもしなければ地元の駅まで真っ直ぐ連れて行ってくれる。
「それにしても、3年後には新妻エイジを追い抜くなんて、そんなこと言ってくれてたんだな。俺、本当に服部さんが担当してくれて幸せだと思った」
  打ち合わせでの言葉を頭の中で反復しても、心の底からありがたいという気持ちが込み上げた。あの人と一緒なら、きっといい作品が作れる。
 同意を求めて隣を向こうとしたら、右肩に重みを感じた。いつの間にか撃沈していたサイコーが、俺に寄りかかって寝ていた。さっきから返事がないと思ったら……。
 今までずっと睡眠時間を削って来たんだ、仕方ない。まだ地元の駅に着くまでは時間がある。それまでたっぷり眠ればいい。俺はそんなに眠いわけではなかったので、せめてサイコーを起こさないように、出来るだけじっとしていることにした。すぐ側からサイコーの寝息が聞こえる。定期的に聞こえるそれに、安堵を覚えた。少しでも休むことが出来ればいいと思いながら。
 何度目かの停車が訪れる。パラパラと人が降りて行き、電車が少し軽くなった。ホームに降りた学生が、楽しそうに笑い声を上げている。静かにアナウンスが流れると、扉が閉まり発車した。まだ地元の駅には着かない。サイコーは相変わらず深い眠りの中だ。
 ふと、妙な感覚がした。右からだ。冷たいような、涼しいような、生ぬるいような……まさか。隣をちらりと見ると、あまり当たって欲しくない予想がピタリと当たっていた。
(よ、よだれ……)
  寄りかかられても、よだれまで垂らされたのは初めてだなぁ……。まぁでも、そこまで眠りが深いのか、無防備なのか。安心してるんだったら嬉しいけど。
 俺はサイコーを起こさないようにジーンズのポケットを探ると、ハンカチを取り出してサイコーの口元を拭いた。本当は自分の服も拭きたかったところだが、サイコーを起こしてまですることでもない。拭った面を内側に畳み直し、またジーンズのポケットにハンカチを仕舞った。また垂らされるかも知れないが、その時はまた拭ってやろう。
 顔を覗き込むと、サイコーは本当に気持ち良さそうに寝ている。何だか少し可愛く見えて、思わず笑みが浮かんだ。

 地元の駅まで、あと少し。

 

 

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割愛しましたがホントは地下鉄はもう一回乗り換える、と思います。



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