優しいなぁ

 エンジェルデイズの度重なる落選で落ち込んでいた俺たちに、服部さんが作品批評を見せてくれて、俺がボロボロに泣いてしまった日。俺とサイコーは仕事場に直行した。お互い携帯で親に伝え、電車に乗った。と言っても、急いで何かをする訳でもない、何となくの行動だ。俺たちは電車から降りると、適当にコンビニに寄って夕飯を調達し、マンションへと向かった。

 部屋に入ると当然だが真っ暗だ。サイコーが電気を付けると、蛍光灯が何度か点滅して明るくなった。俺はまだ明るさに慣れず、目を閉じたり開けたりしていたが、さっき泣いたばかりで目がしぱしぱとしていたせいもあるだろう。多分目も赤い。
 何気なくポケットを探ると、くしゃくしゃになったハンカチが指先に当たった。ポケットに入れっぱなしだったんだ、今思い出した。それに、これは俺のハンカチじゃなくて、サイコーの……。
 編集部で泣いてしまったとき、サイコーが困ったようにハンカチを差し出してきた。俺は自分のハンカチを持っていたが、サイコーの顔が困っていながらとても優しかったので、悪いなと思いつつ思わず借りてしまったのだ。それを見ていた服部さんには「君達は本当に仲が良いね」とニマニマされてしまって、少し恥ずかしい思いをした。
「シュージン? 何突っ立ってんだよ。入れよ」
  ポケットの中でハンカチをいじっていると、サイコーが不思議そうに俺を見ていた。
 フィギュアの並ぶ部屋を抜け、慌てて仕事場に入る。締め切っていたせいで、部屋の中はむっとする暑さだ。夜になって昼間よりは気温が下がっているとは言え、始まったばかりの夏の気温は、夜も暑さを主張する。
 サイコーは「少し空気入れ替えるぞ」と俺に一言断ると、ベランダのドアを開けた。暑いと言っても、外の空気を取り込むと涼しく感じる。少し風があるせいかも知れない。
  コンビニの袋を適当な場所に置いた。ハンカチをどうしようかと少し考えたが、使ってしまったものだし、普通に洗って返すのが良いだろう。
「さっきのハンカチ、ありがとな。洗って返す」
「え? あぁ、別に洗わなくても良いよ」
「洗うよ! 俺の涙染み込んでるし!」
  サイコーが少し笑った。俺も釣られて笑う。撃沈していた俺たちだが、少しでも浮上出来たのは服部さんのおかげだ。良い担当に出会えたことを、今更ながら感謝した。
「シュージン、泣くからびっくりしたよ」
「いや泣くよアレは……俺感動したもん」
「うん、俺もちょっとじわって来た」
  二人で適当にソファに座った。俺はコンビニの袋からレモンティーのペットボトルを取り出し、口を付ける。いつもは甘すぎると思っていたのに、今日はその甘さに癒される。少し息を吐いて、落ち着きを取り戻した。レモンティーの甘さが、緊張が解してくれているようだった。疲れてるときには甘いものって言うけど、緊張を解くときにも甘いものが良いのかも知れない。
「まだ少し目、赤いな」
「わり……」
「何謝ってんだよ、シュージンがすぐ泣くのは今に始まったことじゃないだろ」
  パックのコーヒーにストローを差しながら、サイコーは笑っていた。その笑顔はやっぱり少し優しくて、俺はどきっとしてしまった。気のせいかもしれないけど、今日のサイコーは何だか優しい。
「もう良いよな、クーラー付けといて」
  サイコーが再び立ち上がってベランダのドアを閉めに行った。俺はリモコンを探して、クーラーを付ける。低めに設定した風が、部屋の空気を撫でる。
 戻ったサイコーがソファに座り、コーヒーを飲んだ。サイコーも一息ついたようだ。表情がほんわり柔らかくなった。
 泣いて潤ったはずなのに、目が乾く。ドラッグストアかどこかで、目薬でも買ってくれば良かった。俺はついまばたきが多くなってしまう。
「目痛い?」
「いや、何か乾いて……」
「真っ赤だもんなー。充血してるし」
  俺はめがねを外して、しばらく手のひらを目に押し当てた。乾いた目を少し休ませるためだ。開いているより、閉じている方が目には優しいはずだ。手のひらを離しゆっくりと目を開けると、目の前にはいつの間にか俺を覗き込むサイコーがいた。
「うわっ!」
「あ、ごめん。そんなにひどいんかなって」
  俺は思わず仰け反ってしまったが、サイコーは心配そうに俺を見ていた。
「いやひどくないけど、乾いてるから少し休ませようかなって」
「大丈夫か?」
「な、なんか今日サイコー、妙に優しいな……」
 その言葉にムッとしたのか、サイコーの手が俺に伸びた。何だ? ツネられる? 俺は反射的に目を閉じた。
 しかしツネられるにしても、いつまで経っても衝撃がない。そのうちさらりと髪を撫でられたが、それっきりだ。俺が恐る恐る目を開けようとした途端、瞼に柔らかいものが触れた。
 何だこれ、と疑問に思う間もなく、俺はそれがサイコーの唇であることを知った。目の縁をなぞる舌が、それを俺に知らせたのだ。唇は瞼を撫でるように這い、時折睫を食む。目の縁を軽くちゅ、と吸ってはまた唇が瞼を撫でる。
 俺は、目の乾燥とか、赤く充血してるのがどうとか、そう言うのが全部吹っ飛んでしまった。体中の熱が全部顔に集まってるんじゃないかってくらい、絶対今俺の顔は真っ赤だ。耳も熱いから絶対真っ赤だ。目を開けるに開けられない。自分でも瞼が震えてるのがよくわかる。目を閉じているから、感覚で全てを捉えてしまう。サイコーの唇も、そこから漏れる吐息も。
 俺は少し泣きそうになった。編集部にいた時とは明らかに違う理由だが、それが何なのかはわからなかった。でも、じんわりと喉の奥から込み上げる物はある。
 やがてサイコーが離れる気配がした。俺が恐る恐る目を開くと、もうサイコーはソファに座っている。顔の温度を確認するかのように額に手を当てたが、それは予想通りの熱さだった。
「俺今までネーム全部シュージンに投げっぱなしだったけど、手伝えることがあったら言えよな」
「……?」
  突然振られた話に少し混乱した。まだ、熱さに気を取られている。俺はこんなにうろたえているのに、サイコーは全然そんな素振りがない。
「シュージン、自分だけのせいで落ちたって思ってるだろ。そう言うの、おかしいからな」
「え、でも」
「気持ちはわかるけど……、だから何か詰まった時は俺にも言えってこと。一緒に考えるし……」
  サイコーなりの気遣いか、自分だって俺と同じくらいかそれ以上にショックだったくせに。優しいんだか何なんだか……やさしいなぁ。俺はうん、と短く返事をして、めがねを掛け直した。鮮明になった視界と、サイコーの少し照れたような顔が映る。
「よ、よーしメシ食お」
  照れ隠しか、サイコーはテレビの電源を入れた。先日亜豆が映っていたテレビには、バラエティ番組がそれに代わっている。優しかったのは心配だったからなのか、それはもうどっちでも俺は嬉しいけど、ハンカチを返す時にはそのお返しを一緒にしようと思った。何か奢るでも何でも良い、サイコーの喜ぶものを。
 俺はサイコーの意外な優しさと、瞼にされたことでまだどきどきしていたが、あっちーなーと誤魔化しながらコンビニおにぎりのフィルムを剥いた。



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